登場人物が「ただ見てるだけ」の壮大な叙事詩SFマンガ『ヨコハマ買い出し紀行』

前回、『ヨコハマ買い出し紀行』を空前絶後のユニークなマンガと書いた。私もそんなにマンガについて詳しいわけではないので確証はないのだが、この作品に似たマンガを思いつかない。この作品の後、いわゆる日常マンガや、ユルユルマンガが多く生まれた。特に『ARIA』『神戸在住』がセットになって語られることが多く良いマンガではあるが、YKKに比べれば普通のマンガである。物語の背景もキャラの出自もはっきりしており、1話ごとにちゃんとストーリーがあってオチがある。同じ作者の最新作『カブのイサキ』ですら、よくある若者の冒険&成長譚に見える。
『ヨコハマ』は物語の背景は分からずキャラの出自も分からず1話ごとにストーリーがなくオチがない。驚くべきことにほとんどすべてが謎なのである。説明的なト書きが皆無なのはもちろん、セリフでも説明がない。そのため作品内の事象、「なぜこうなのか?」という疑問はこちらで類推するしかない。


たとえば第9話でアルファさんは自分の名前の由来を語る。
「私たちみたいなアルファ型がまだ珍しくてねー。『アルファさん』と呼ばれてたの。それで名前になっちゃった。まあ気に入ってるし。(照れ笑い)」
一読してのんびりした話だが、この一言から色んなことが考えられる。一体、誰が彼女を『アルファさん』と呼んでいたのだろう?普通に考えてロボットの研究者や技術者だろうと推測できる。では一体それはいつごろの話なのだろう?またココネさんも「研修所」にいたとのことだが、見渡すにそんなロボット工場も研修所も現存しているとは思えない。まだ人類に勢いがあった時代のころだとすると、アルファさんたちは案外結構な歳だということになる。少なくとも20〜30年前のことか?
一方57話では彼女は「ものごころついた」頃にはすでに初瀬野邸(現カフェアルファ)に居たことになっている。このことは113話でも確認されており、この回での回想ではアルファさんは赤ん坊状態でカタコトしか喋れなかった(しかしアルファという名前はついていた)。
初瀬野邸がいつ出来たかについては、99話のアヤセ氏の話だと「ガキのころは不気味スポットで有名だった。」とのことでアヤセ氏の年齢からすると20年くらい前には既にあったらしい。年代的には大体合っている。
しかし初瀬野邸に喫茶店が併設されたのはそんなに昔の話にはない感じがする。57話の回想によれば、初瀬野氏以外の人間と懇意になったのは0話のガソリンスタンドのおじさんが最初らしいのだが、養子として初瀬野氏に引取られて20年も近所に知られずにいたというのは不自然ではないだろうか。
また、この時代でもまだロボット工場が存在している可能性もある。小海石先生がロボットを治すのに必要な部品(皮膚と髪)を保有していたこと、彼女が時々横須賀へ出かけている(22話)らしいことからその可能性は大きい。ロボットの研究所が横須賀にあるのではないだろうか?そうなると今考察した年代も一からやり直しである。


と、まあこんな調子であらゆることが曖昧なままなので、数少ないセリフから憶測と妄想を次々を呼ぶことになる。ロボットの謎、ターポンの謎、大災害の謎、ミサゴの謎、水神さまの謎、オーナーの謎、社会経済体制の謎・・・。謎本ができないのが不思議なくらいだ(まあ売れないだろう)。
ここまで何も語らないと、要は手抜きなのではないか、と思うかもしれない。しかしここがこのマンガのすごいところで、なぜかグイグイと読んでしまうのである。個々のエピソードの構成の妙なのである。
実際、それぞれのエピソードは他愛のない話が多い。「おじさんからスイカを大量にもらって困った」とか、「海へ行って泳いできました」とか「お客からもらった黒糖がおいしくて涙が出た」とか「「開店準備中に居眠りしてたら夕方になっちゃった」とか、一行で要約できる上にオチもないというのが多い。
しかしこういうエピソードを12年間141話も積み重ねて一度に俯瞰してみると、一つの叙事詩的な物語になっているのである。小海石先生の回想から始まると考えると、最終回までざっと100年の歳月が流れており、ただのほのぼのマンガにしてはアンバランスな壮大ぶりである。
また、全体的な構成としては、ちょうど真ん中に台風によるカフェアルファ倒壊という事件があり、そのエピソードを挟んでその前までがアルファさん成長編、その後が試練編といった感じになっている。合わせ鏡のようなきれいな構成であり、ダラダラと続けていたわけではなく、最初から計画的な進行だったことが窺える。
大した事件がほとんど起こらないのに、なぜこうしたことが可能なのか。それはこのマンガのテーマが(思い切って断定してしまうが)「目の前にある事象を見よ」だからだと思う。
「見ること」についてはこのマンガの登場人物たちは実に忠実に遂行している。オーナー<初瀬野氏)は「外へ出てまわりを見て歩くことをすすめる」とカメラをアルファさんに贈る。小海石先生は「見て歩くもの」のマークを自ら考案する。アヤセ氏も初瀬野氏の指示(?)で全国を歩き回る。とにかく、この破滅しかかっている世界をなんとかしようと行動する人は誰もいないし、考えてもいない。ただ見ているだけなのである。登場人物の目(さらに言えば五感)を通して世界を見る。美しい光景もあれば、朽ち果てた光景、異常な光景もある。それらを見てただきれいだとか、悲しいとか、驚いたとか思うだけである。これを繰り返して浮き彫りになるのは、事象の変化、時の流れ・・・全体を見渡すと壮大な時の流れを感じられるわけである。
以前、ある写真家が自分の子供の成長を定期的に定位置で撮影して、あとでパラパラめくって見るという作品を見たことがあるが、なんとなくそれに似たイメージがある。
このような時の流れに対する無力感、ニヒリズム・・・この辺が前回書いた「退廃的」と感ずるところで、ベンチャー企業を立ち上げて成功したいとか、官僚になって人民をコントロールしたいとかそういう前向きな人にとっては噴飯もののマンガではないかと思う。
しかし「見るもの」がいる限り世界は終わらないだろう。なんで終わらないかというと話が長くなるのでまた後で。

(次回、芦奈野氏の演出技法を具体例をあげて考察してみる)


網代の入江にはミサゴっていう不思議な人が魚とって暮らしてたって(第2話)