第49話『あついすな』における演出技法の考察(その2)

手抜きなのではなくて、おそらく詩のようなマンガを創りたかったのだろう。詩的と言っても絵の上に詩が載っかってるようなものじゃなくて、絵にしても、言葉、セリフにしても、極力少ない表現でより多くより複雑なことを語ろうとしたということである。
アルファさんが「タカヒロたちが水着持ってないなんて気がつかなかったわ、どうしよう・・・」とかセリフで言えば簡単だが、そうすると全体のトーンから見て興ざめなのは明らかだ。セリフも絵もギリギリの表現しかしなかったら、後は何が残っているかと言うと、人物の表情や仕草くらいしか残っていない。読者は、人物が何を考えているのか、今何が起こっているのか、人物の表情を通して類推するしかない。
実際このマンガはほとんどがそういうパターンなのだが(セリフも文章もないエピソードすらある、また特定の人物が出ずっぱりという事情もある)、これって相当な画力がないとできないのではないだろうか。その時その時で人物の表情を微妙に変えなければならないのだから。
この49話では自動車を運転している時のアルファさんの表情が行きと帰りで大きく変わっており、このふたコマを比べるだけでセリフで語らずともこのエピソードのテーマを感じ取ることができる。
こういうとそんなの漫画家として当たり前ではないかと思われるかもしれない。しかしちょっと手元にあるマンガを引っ張りだして見ると分かるが、通常のマンガはそんなに人物の表情を書き分けているわけではない。大抵は記号化された表情にセリフ、コマ割り、擬音、効果線などマンガの技法を組み合わせて表現している場合がほとんどである(これは別にそれが悪いと言っているのではなく、長い年月の間に培った日本マンガの技法だと思う)。
しかし「ヨコハマ・・・」は、連続したコマで人物の表情が微妙に違うことが多い。同じような顔でありながら内面にちょっとした変化があるのがわかるような微妙な変化を描き分けられている。セリフなどの助けなしで、読者は人物が何を考えているのか類推しなければならない。そこに明快な答えがないので、人によって解釈が違ったり、しばらくしてから読むと読後感が変わっていたりすることがある。
また、背景にしてもそれほど緻密に描かれているわけではないのに、得られる情報は豊富で、さらっと読んでいると見逃すことも多い(第10話で岩にミサゴの足跡がついているとか、さり気ない描写が多い)。89話のように「ささげ」の用途を知らないとまったくわけの分からない話もあったりする。
「ヨコハマ・・・」が一方でストーリーがないとか、雰囲気マンガとか揶揄されながらも、何度読んでも飽きがこないのは、この辺りの類推する楽しさがあるからである。これだけ読者を引き込めるということは、相当な才能と言うべきであり、映画で言えば小津やタルコフスキーがやっていたようなことに挑戦していたのでないかと思う。

いつも遠くに見ている印象的な塔を間近に見て(第129話)


前にこのマンガに似たものを思い出せないと書いたが、その後思い出したのがクリフォード・D・シマックの『都市』である。
これは数千年に渡る人類の興亡を一人の執事ロボットの目を通して描いた小説である。興亡といっても描かれるのは主に執事ロボットのいる一族によるミニマムな話である。何世代にもわたって人間を見守るロボットの描写、都市が衰退し人がどんどんいなくなっていく描写がどこか切なくうら寂しい感じで『ヨコハマ・・・』の無常観とよく似ている。また、衰退する人類に代わって進化した犬族が文明の担い手となって行くのだが、このあたりも『ヨコハマ・・・』での「人間がロボットを作った理由」と繋がっていく気がする。
シマックは『中継ステーション』で人類の存亡にかかわる事件がアメリカの農村で展開するという、ほのぼの田舎SFと書いており、『ヨコハマ・・・」との共通点を見出せる。

都市 (ハヤカワ文庫 SF 205)

都市 (ハヤカワ文庫 SF 205)

古典的名作が絶版ってアンタ・・・