SFマンガの傑作「モジャ公」

モジャ公 (1) (小学館コロコロ文庫)

モジャ公 (1) (小学館コロコロ文庫)

モジャ公」(1969年)は藤子F不二雄先生の隠れた傑作です。ここでこのマンガがどんなにすごいかちょっとご紹介します。


  第1話「宇宙へ家出」
少年天野空夫は毛玉みたいな宇宙人「モジャラ」と自立型ロボット「ドンモ」に見こまれ、仲間になって宇宙へ飛び出そう、と誘われる。プロローグという感じだが、3人が3人とも退屈な日常に飽き飽きし、遠くへ行けば何か面白いことがあるんじゃないかと根拠もなく夢想するボンクラであることが確認される。


  第2話「地球人はこわいよ」
「知らなかったことも犯罪のうちだ。」
メルル星は地球よりちょっと進歩してる程度の平凡な惑星だった。ここで空夫は地球の評判が非常に悪いことを知る。完全に「土人」扱いである。地球で言えば、先住民や辺境の民族を野蛮人扱いしたC級映画のイメージが定着しているらしい。その一方で何でもパソコンに頼っているメルル人は手書きで簡単な計算もできなかった。考えてみたら、私もこの数年、手書きで割り算の計算をしたことがない、原稿用紙に手書きで文章書いたこともないです・・・。


  第3話「うまそうな3人」
「カツにすると誰が決めた。わしゃさっぱりと水炊きが食いたいぞ。」
簡単に言うとSF版「注文の多い料理店」。それぞれの種族の習性や習俗に干渉できないし、部外者が間違っているからやめさせようなどど考えてはならない、という諦観がある。


  第4話「さよなら411ボル」
「一万ボルです。」
「ボル」は宇宙共通通貨(1ボル=約250円)。燃料補給に立ち寄ったインターチェンジ的人工星コスカラ星で3人はサンザンぼったくられる。こうした世間のせちがらさは子供に教えたくないというのが当時の社会通念だったが、現在でもこうした悪徳商法は後を絶たない。とにかくこのマンガでは「お金」の問題が多い。


  第5話「恐竜の星」
「ありありと見えるんだ、血なまぐさい明日が。」
ここから一気に本領発揮というか、怒涛の展開となる。一言で言うと「ジュラシックパーク」+「マイノリティリポート」である。恐ろしい恐竜のいる惑星に不時着した3人。モジャ公は時々トランス状態となり未来を予知する能力がある。「まずぼくが、次に君が食べられる・・・」結局恐竜に食われる運命なのか?驚愕の結末。ホラー的描写もうまい。銃を構えた美女(握りは小指立て)が恐竜を真正面から対峙するシーンの映画的興奮!すごいです。


  第6話「アステロイド・ラリー」
「お金も持たずにホテルに来るやつなんか客ではないのです!」
堂々たる宇宙活劇。考えてみると、映画で宇宙レースを描く、というのはありそうでない。「スターウォーズEP1」も地上でのレースだったし。宇宙空間が絵的に変化がなくて困難なところを小惑星ベルトに設定したところがうまい。3人は高級ホテルの支払いに滞ってやむなくレースに参加するのだが、このホテルの描写も鋭いものがある。


  第7話「ナイナイ星の仇討ち」
「それを・・・情け容赦なくうち殺したのがきさまだ!!」
前回と打って変わって今度は不条理サスペンス、さらに後半はバイオハザードである。ラリーで有名になった空夫は、ある男に付け狙われる。そのクエ星人ムエという男は、空夫が父の仇であると主張し、クエ政府公認の仇討ち証明書も持っていた。身に覚えの全然ないことで怨みを買い、命を狙われる・・こんな不条理があっていいのだろうか、恐ろしい体験である。後年『眼には眼を』(アンドレ・カイヤット監督)という映画を見て、このマンガを思い出した。何故ムエは空夫を仇だと思ったのか、そのハードSFな真相に圧倒される。
次の3本はそれぞれが独立した作品と見ても納得できるほどの完成度の高い作品。


  第8話「自殺集団」
「どうでしょう、ここでちょっと死んでみせていただくわけには・・・」
作品中、最も辛辣でグロテスクな社会批判を内包している。こんなものを小学生低学年に見せていいものかちょっと心配になるが、わたし自身小学生の時、読んでました・・・すいません。
惑星フェニックスの住民は不老不死である。モジャ公たちはどんなに素晴らしく偉大な人々なのか、期待する。それはあたかも「ガリバー旅行記」でガリバーが同じような不死人にたいするあこがれを表明するシーンと似ている。そして言うまでもなくその期待は裏切られる。フェニックス人は未来の希望をまったく失ってしまった、無気力で死んだような人生を送っていた。
オットー登場
オットセイ型宇宙人で山師のオットーが登場する。彼はこの星で一財産儲ける話を3人に持ちかける。フェニックス人は「死」にあこがれていた。そこで「死んでやる」と公言すれば、彼らは金を払ってでもその死を見に来るだろう、そして金を集めるだけ集めたらトンズラしよう、と言うのだ・・・
これが発端で、マスコミを通じて自殺ショーの話題が膨張していくマス・ヒステリアの過程が実にこわい。
タコペッティ登場
この自殺ショーを撮影しに、宇宙を股にかけて活躍しているドキュメンタリー映画作家タコペッティもフェニックス入りする。彼はこれまでの活動で身体の大部分を損傷し、全身義体と化していた。普通サイボーグといえば、戦士のイメージだが芸術家というのは珍しい。
モジャ公とフェニックス人パイポさんとのロマンスもあり、なかなか密度の濃い話。


  第9話「天国よいとこ」
「隠したがるものほど見たいものさ、だからわしの映画は面白いんだ。」
作品中最高のハードSF。一言で言うと「マトリックス」+「イノセンス」。今回、タコペッティが半ば主人公。後半はギャグは影を潜め、シリアスな展開である。人間の心を操ることによって理想の世界をつくろうとするシャングリラ人のボス大法官と全身義体のタコペッティが対峙する。「これこそ本当の天国だとは思いませんか?」「ごまかしの世界だね。わたしはごめんだ。」例え体は作り物でも、心は何人たりともいじくることはできない。立派な人物である。


  第10話「地球最後の日」
「地球人はどいつもこいつもみんなあほんだらや。」
アルマゲドン」+カルト宗教問題。地球に帰って来た空夫とモジャ公たち。宇宙人のテクノロジーを身につけた空夫はイジメっ子のピテカン(ジャイアンに相当)らをおどかして日ごろのウサを晴らす(この辺は「ドラえもん」みたい)。が、モジャ公からとんでもない報告が。巨大な隕石が地球めがけて進んでいるというのだ!この隕石は直径940キロ、このままだと28日7時間45分後に地球に衝突する!光速の1.3倍の速さ(ありえない・・・)で進んでいるので地球のテクノロジーでは観測できない。「文化レベル0.3。とても他の星と付合う資格などない。そんな人たちに恒星間飛行やロケットの秘密を教えちゃいけないんだ。」これでは地球の危機を皆に納得させることはできない。悶々とする空夫だが、TVである新興宗教の特集をしているのが目にとまった。その教祖は地球最後の日が来ると説くと司会者に立体映像で見せる、それはあの隕石だった・・・
街の風景が、他の藤子マンガに比べるとリアルな描写のような気がする。
これで単行本2冊分(小学館コロコロ文庫)なんだよね。すごいでしょ?


  番外編?「不死身のダンボコ」
現在刊行されている文庫本にはこの巻はない。経緯はよくわからないが、95年の「愛蔵版」に掲載されたきりである。タッチや話の展開がちょっと荒っぽく、失礼ながらやっつけ仕事だったのではないかと推察される。しかし「ダンボコ」のSF的アイデアは相当なもの。
モジャ公らが職安で見つけた仕事、それは成金のモクベエの依頼で怪獣「ダンボコ」を仕留める、というもの。ダンボコの形状はまったく不明で、特徴はただ一つ、「ダンボコ〜」と鳴く、ということである。その惑星にやって来たモジャ公はいきなり「ダンボコ〜」と鳴く生物を仕留める。楽勝とロケットに戻ってみると、他の連中もそれぞれ全く違う生物を仕留めてきていた。「ダンボコ〜」と鳴いていたからだ・・・。一体どれが本当のダンボコなのか?そしてモジャ公たちにも危険が迫る・・・
映画で似ているのは辛うじて『遊星からの物体X』だろうか、かなりユニークである。