p1*第16話『太平洋の亡霊』
こちらを参照のこと。ただし結末まで記述しています。

http://d.hatena.ne.jp/Joetip/20040417


戦中派の、戦後世界またはアメリカ合衆国に対するアンビバレンツな思いが生んだ異形の作品である。この作品の破滅的なイメージと、矛盾を矛盾のままさらけ出したストーリー展開は、製作にさまざまな規制がかかった映像に慣れてしまった我々の目に、差別表現とはまた別な意味で衝撃を与えるだろう。それは実際に国が滅んださまを目撃した者だけが表現できる異様な迫力がある。
ストーリーは今の感覚で見ると、矛盾に満ちている。
普通に考えると、こういうストーリーになるのではないだろうか。『海底軍艦』の神宮司大佐のように太平洋戦争の敗北を認めない人物が、あのような機械を開発し、帝国海軍を復活させ、アメリカに戦争を仕掛ける。それを平和の戦士である009たちが阻止しようとする。解決した後に、009が平和憲法の尊さを語る、という話にした方がすっきりする。しかしもしそうであったら、この作品はアニメ史には残らなかっただろう。
しかしこの作品はそうはならない。平和憲法の尊さを説くのはテロリストの方で、むしろ009たちは狂っている側だと言われてしまう。しかも英霊も平和憲法に賛同しており、戦争はいかんと言いつつ現代の米軍に戦いを挑む。後半だけ見ると左翼イデオローグに見えるが、前半の戦闘シーンは異様な迫力があり、私は現代の真珠湾を攻撃する零戦をかっこいいと思い、長門アメリカの戦艦を40サンチ砲で撃沈するのを見ていると、計らずもスカっとしてしまう。いつしか帝国海軍を応援していることに気付き困惑する。レニ・リーフェンシュタール監督の『意志の勝利』に通ずる映像の危険な魅力がある。
この作りはまさに、戦中は国民を虐殺し、国土を焼き、戦後は民主主義と経済的安定をもたらしたアメリカに対する複雑な感情・・・平たく言えばアメリカに復讐したい、英霊に報いたい、でもやっと手にした平和は守りたいという3つの感情を体現している。戦争体験者が人生の表舞台から退場しつつある今、このアニメの英霊、米軍、平和憲法という3つの関係を説明するのは難しい。しかし当時はまだ、それらが普通に並存して語られていたのだろう。
戦中世代にとって平和と怒り憎しみが裏と表で切り離せないものであった。上っ面の平和だけを訴えるならば正義の側に平和を語らせれば良かったのであるが、あえて負の感情の存在を訴えたかったゆえ、敵側に語らせざるを得なかったのである。同じ平和と希求しつつ対立する009とタイラ博士という設定によって、物語はより深みを増したと言えよう。海へ還っていく兵器たちへの思いも胸にせまる。
話はそれるが、こうした戦後世界に対する愛憎を映画で生涯描き続けたのが、深作欣二監督であろう。
敵の方に実は理があったのではないか、という作り方は日本の特撮やアニメでよく使われる手法ではあるが、私が想起したのは、黒澤明監督の『生き物の記録』である。いつ核戦争で人類が滅亡してもおかしくないのに、しかもそのこと充分承知しているのに、何の行動も起こさず、平穏に日々を送れるというのは生物として狂っているのではないのか?というある意味では素朴すぎる疑問を提示する。動物的な勘で素直に逃げ出す準備を起こした主人公は逆に狂人扱いされてしまう。確かに常識的には仕方の無いことではある。しかし心の片隅ではやはりこういう世界はおかしいのではないか?と思わずにはいられないだろう。
戦争をこの世から無くしたい、と言う思いから大日本帝国(博士のかつての思想的バックボーンであったろう)の力を利用して、世界中の兵器を破壊し尽くすという、いわば兵器ラッダイト運動を断行しようとしたタイラ博士は明らかに無謀であった。しかし極端な行動から見えてくる真実もあるのである(実際にやれと言ってるんじゃないよ、飽くまで虚構の世界の話だよ)。

この中の船のどれかが「長門」。