第5話『あゝ クビクロ』

脚本/小沢 洋 演出/勝田捻男
石ノ森ファンならばクビクロの物語を知らない者はいないだろう。名作だが、あまりにも短い話なので30分アニメでも話がもたない。そのため、前半は新たな脚色がなされているのであるが、これがあんまりうまく行っていない。原作では009以外の仲間は登場せず、彼は下宿で一人暮らしをしている。孤独なもの同士の交流みたいなものを感じさせ、それゆえラストの決裂に胸が痛む。また、街路樹の様子で四季のうつろいを表現する少女マンガ的な演出が悲劇を強調する。
アニメは死の商人たちが、東南アジアで泥沼カしつつある「ベトリア戦争」のために超能力犬の開発を目論むところから始まる。動物を戦争に使うという発想は、マイク・ニコルズ監督の『イルカの日』でも描かれている。『サイボーグ009』にも偵察用スパイイルカが出てくるのでこういう発想はポピュラーだったのだろう。また、この原作はスティーブン・キングの『ファイアスターター』に先んじて人体発火現象ースポンテニアス・コンバッションをアイディアに使っているマンガでもある。
一方、009と003は上野の西郷さんの前で007と待ち合わせ。003のバレエ発表会のためである。バレエのシーンが異常に動きがいいが、劇場版アニメからの流用である。途中、3人は上野公園で大道芸を見る。3匹のワンちゃんが計算をする芸である。14−8は?と老主人が言うと6のカードをくわえて来る。その中の子犬がクビクロと呼ばれる。最初に目を付けたのは007で、ここでは009は芸に関心がない。
その直後老人と犬が武器商人に雇われたチンピラにさらわれる。003「ナンバーを見ておけばよかったわねえ。」ってあんたの能力は・・・。ギルモア博士によれば老人は動物学の権威、犬塚博士であり、犬は脳改造を受けて頭が良くなっているのだろう、ということであった。残されたクビクロを009が引取る。やはり009はアパートに一人で住んでいるらしい。ここでやっと009はクビクロに情が移るのだが、なぜ最初からそうしないのだろうか?
一方、武器商人のアジトに監禁された犬塚博士は、頑として超能力犬の開発を拒否し続ける。太平洋戦争で自爆犬の開発に手を貸したことがトラウマになっていた(そういえばこの間観た『太陽』で阿南陸軍大臣が軍用犬による自爆作戦の有効性を説いていた)。
しかし結局クビクロもさらわれ、博士は強制的にクビクロを手術する羽目になる。博士は「お前の脳組織には悪に対する怒りのエネルギーを植えつける。手術が終われば私は殺されるだろう。だからお前は永遠に生き残り、怒りの炎を発し続けてくれ。」と念ずる。はっきり言って手前勝手な論理である。敢えてクビクロを手術した動機としては説得力に欠ける。しかしこの考えとは裏腹にその後クビクロが無差別テロに走ることを思うと、テロの行動原理の矛盾を指摘しているようにも見える。脳改造されたクビクロは睨んだだけで対象が発火する能力を得る。
009たちは悪人のアジトを突き止め、乗り込むのだが、一足遅く、アジトは爆破される。博士、クビクロの両親ともども爆死である。この回で009はチンピラ如きに常に先を越され、いいとこなしである。脚本がおかし過ぎる。
一応ここで悪人は逮捕され、クビクロは009に引取られる。クビクロちょっと大きくなっている。犯人は法に拠って裁かれることになるが、クビクロは彼らに憎悪の目を向ける。その後警察の護送車が火達磨、列車も発火して爆発(乗客全員死亡か?)、大惨事が続いてやはりクビクロの仕業ということが分かる。ギルモアの「もうこのまま放っては置けんぞ。」の一言で、009クビクロ抹殺の決意をするが・・・。
クビクロが道路の真ん中に立ちはだかっている図とラストシーンの教会がいいのだが、どうも盛り上がらない。
動物まで利用される戦争、というテーマは分かるが、正直言ってもったいない作品。