『グエムル 漢江の怪物』(ネタバレ注意)

カンドゥの頭が悪い理由はかなり非科学的なものだった。そりゃ親父さんの思い込み・・・子供達は寝てる、聞いてない。それでも熱弁を振るう父。滑稽だが切ない、哀しいシーンである。
親父さんはその後怪獣に殺されるのであるが、このときのガンホの演技はすばらしいものだった。軍人が近づいてくる、逃げなければ・・・と思いつつ顔に布をかけてやる、それで逃げよう、と思いつつ結局引き返してしまう・・・カンドゥは甲斐なく軍につかまってしまう。理性が情に負けた・・・馬鹿と言えば馬鹿だったが誰が責められるだろう?
このシーンの軍人のように、この映画では「軍」は点景としてしか描かれない。重大な秘密を握っており、民衆の運命を翻弄しているはずだがむしろ滑稽で頼りなさそうな存在として描いている。信じがたいことだが、軍はこの映画で一発も発砲しない。グエムルを秘密裏に処理したい軍は、むしろ怪獣を守る立場であり、その銃はむしろ民衆の方を向いているのだ。こういう民衆から見た軍・政府というのは、『JSA』とか『シルミド』を見てるだけ(俺か)では分からないだろう。

一方、怪獣に拉致された娘の方は、凄まじいサバイバルを演じていた。これは残念なことだが日本では表現できないだろう。年端も行かない少女が死体の山から食べられるものとか携帯を漁るというのは。この辺も戦時体制の国ということを感じさせる(そうは言っても半島全土がほぼ焦土と化した朝鮮戦争からもう50年経ってるのだが)。その後浮浪者の子供も襲われ、「女子供と言えども容赦しない」という、私が思い描く怪獣ものの理想にほぼ近いものがある。
前編を通してコメディタッチなのだが、「怪獣に関わってしまった」時の絶望感というのは、今の日本映画より深いんじゃないかな。当事者たちは絶望のどん底なのに、隣の無関係な人は平然とヘラヘラしている、みたいな絶望的な孤立感がある。それゆえ視野狭窄的な怒りを怪獣にぶつけるのだった。クライマックスの対決で、軍隊もデモ隊も
完全に遠景としてしか描かれないが、最初これは予算がなくなったためだと思ったが、後で考えると「怪獣しか見えない」ということを表現したかったのか。
巨大怪獣ではなく、『エイリアン』的な迷宮に」潜む怪物の類だが、このジャンルでこれほど、情念を怪物にぶつけた映画というのは、とんと見たことが無い。まさに極私的な怪獣映画と言える。