第43話『見知らぬ宇宙の相続人(後編)』

Joetip2005-12-07

後編はどこから語ってもネタバレになりそうなので、内容を具体的に語ることはできない。
前編のサスペンスフル、ミステリアスな展開はなかなかのもので、しかもこの作品、考えてみたら特撮も怪獣も何も出てこない。それでいてちゃんとSFものなのだから、これは演出の賜物だろう。ジェームス・ゴールドストーン監督(代表作『世界崩壊の序曲』)の生涯最高の演出ではないか。
後半も骨太の演出は変わりないが、前編が世界を飛び回ったのに対し、後半はウィチタの工場内での、バラード対ミンズ少尉+3人の対決が中心である。後編はロバート・デュヴァルとスティーブ・インハットの、TVドラマの範疇を越えた演技合戦の様相を呈していく。科学力では到底太刀打ちできないと悟ったバラードは、4人のチームワークを崩す心理戦に持ち込むが、ここでミンズ少尉はとうとうこの計画の全貌を「自分の言葉」で語り始める。
ロバート・デュヴァルは始終抑えた演技であまり感情を表に出さないが、素晴らしい演技を見せてくれる。前編では国家を背負って「宇宙人撃つべし!」みたいな険しい感じだったのが、少尉の話を聞いているうちに顔の険が取れてきて優しい面持ちになっていくのがわかる。この辺りの微妙な演技はさすがである。
また、ミンズ少尉演ずるスティーブ・インハットも、アップで滔々と話し続けるシーンが圧巻、全能にも係わらず、全てを諦めたような悲しげな表情がいい。

計画の全貌とは・・・それを詳しく語ることはできないが、現在の感性からするとどうなのか?と疑問を感じざるを得ない。私の考えすぎなのかもしれない、「いい話じゃん」で済む内容なのかもしれない、しかし立場によっては激怒する人もいると思う。特に「この子達は地球では幸福になれない。」というセリフは私も、それはちょっと言い過ぎでは?と思ってしまう。スタッフ一同の善意と意気込みを疑うことはできない。そうでなければ、こんな大作にすることはなかっただろう。
この作品の印象は『キューポラのある街』を今観た時に感じる「居心地の悪さ」に似ている。確かに『キューポラのある街』は映画史に残る傑作だ。しかしあの北朝鮮出航シーンをそう暢気にみてはいられないだろう。ここまで書くと、私の心はすっかり薄汚れてしまったのだな、と思う。この時代にはあったピュアな感性を信じられなくなってしまったのだ。最近、特撮映画『三丁目の夕日』を観たが、あの映画の中の人たちならば、この作品を見て遠慮なく泣いただろう。だからと言って、昔は良かったなあとは言いたくない。社会の成熟、科学技術の発展、これが進歩というものなのだ。
しかしあの60年代でも、ここまで描いたのは勇気がいることだっただろう。心も体も傷ついたベトナム帰還兵が地球(アメリカだけど)に見切りをつけてしまう話と受け取れるからだ。ここにもアメリカン・ニューシネマの萌芽を見るのである。

写真一番左のジェームス・フローリーはその後監督に転向し、『弾丸特急ジェットバス』『刑事コロンボ 死者のメッセージ』などを撮った。