銭湯とパチンコの記号学

風呂釜が壊れてる間、これを機会に、今まで興味があった、戸塚では結構有名な「葛の湯」に通っていた。
天然温泉が出てるらしいです。そのため交通の不便な住宅街の真ん中にかなり大規模な面積を占めてるんですが。
入浴料400円で泡風呂もあるし、マンガン温泉もあるし、ひさびさに銭湯を楽しみましたよ。
それにしても、裸の男が行儀よく並んで体を洗っている光景というのは考えてみると奇妙だなと思う。
2,3日前の日刊ゲンダイ岡林信康氏のコラムだったと思うが、彼の父親の知り合いにアメリカ人の宣教師がいて、「銭湯は不潔だ、廃止すべし!」という運動をやらかそうとして、彼の父が必死こいて説得したという話が載っていた(なにぶん読み捨てなのでうろ覚えだが・・・)。まあ、赤の他人同士が同じ湯に浸かっているのだから、確かに異様に見えるのはよく分かる。そう思いつつ、温泉に入ってると幸福を感じるのだから、自分もやはり日本人なのだなあとつくづく思う。
ロラン・バルトは銭湯について言及してなかったかな?「この空間は肉体を消失させる場である。」とかいいそうな気がする。
バルトはパチンコには言及している。

パチンコは、集団的で、しかも一人ぼっちの遊びである。機械は長い列をなして並べられている。自分の絵画の前に立ったお客は、おのおの自分だけで遊び、隣の客など見もしない。そのくせ隣の人とは、肱と肱とをふれあっている。お客の耳には、はじかれる玉の音しか聞こえない(玉をいれる間隔はひどくみじかい)。パチンコ店は、いわば蜜蜂の巣箱、または工場である。パチンコをする人々は、鎖につながれて仕事をしているようにみえる。その情景のきびしい感じは、われを忘れて専心する労働者の感じである。怠惰、放埓、粋などといった様子はまったくない。
(『表徴の帝国』ちくま学芸文庫 宗左近訳より)

「絵画の前に立つ」という表現が良い。