シネマヴェーラにて『片腕カンフー対空飛ぶギロチン』『コフィー』を観る。

『片腕・・・』はDVDでしか観ていなかったが、劇場で観ると、ギロチン使いの馬鹿っぷり(片腕と見ると無条件で襲い掛かり、殺した後で「人違いか…」)やジミーの主人公にあるまじき卑怯っぷりが一層露わになって爆笑せずにはいられなかった。審判が扇子(裏表に勝、負と書いてある)を開いて見得を切るのも笑える。天下一武闘会(長い)から始まって、アクションシーンがほとんど途切れないのがいい。最初から笑いを取るために撮ったのだろうか?まあそうだろう。
『コフィー』は『エスケープフロムLA』などに出演していたパム・グリアーの出世作。はっきり言ってすごい美人、そして突き刺すような眼が素晴らしい。同時代の梶芽衣子の役どころとダブる。麻薬で廃人にされた妹の復讐のために、黒人、女、貧乏という三重苦を背負ったヒロインが白人、男、金持ち、という三重楽の連中を殺しまくるという実に分かりやすい話。こちらはシリアスな内容だが、麻薬の売人キング・ジョージが登場すると「キング・ジョージのテーマ」の歌がかかったり、必要以上に胸の露出があったり、色々とサービス精神が旺盛である。敵の用心棒で片目の男が面白いキャラだったが、大して活躍もせずにやられてしまったのは残念だった。全体の安っぽさとか、虚無的なラストシーンなど、どうしても同時代の東映映画を想起せずにはいられない。

事前に知らなかったが、柳下毅一郎氏と篠崎誠氏の対談があった。よく覚えていないが、映画というジャンルの持つ、「ノリシロ」と言うか、フレキシビリティの重要性についてだった思う。映画は多くの人間や組織が係わるために製作過程で予期せぬハプニングが起こる。そのため出来た作品は大抵監督のイメージから大きくはずれたものが出来てしまう。しかし蓋を開けてみたらそれが大うけしてヒットしてしまうことも往々にしてある。また、出来た作品も年月が経つうちに全然違う捉え方をされてしまう場合もある。社会派のシリアスな作品として評価を受けていたものがいつの間にかギャグとして受けてしまった、とか。
映画のそういう特性を大事にするべきではないか、という話だったと思う。そのことを踏まえ、篠崎氏は『恐怖畸形人間』などを最初から笑う目的で観る姿勢は頂けない、と不快感を露わにした。実際、いかに自分が「ツウ」で「こういう映画を理解して笑える俺ってイケてる」なんてことを誇示するためにでかい声で笑うのを競い合っている状況すら生まれているわけで、これは同感である。

今回の特集(馬鹿映画とか、搾取映画とか、グラインドハウス映画とかその他諸々)で組まれるような映画がなぜ今観て受けるかと言えば、それは作り手が、予算とかアクシデントとかの障壁はあったものの、愛情を持って一生懸命作っていたからであって、それが無ければ「下らない」の一言で後世には残らなかったはずである(無論今は忘れられているが、再評価を待っている映画もたくさんあるだろう)。まあ私も笑ってるわけで偉そうなことは言えないが、出来不出来はともかく、作り手に対する敬意は最低限持つべきであろう。
翻って、今日本映画は活況を呈していて、その中には相当ひどい映画もあるらしいと聞いているが(観ていないので何ともいえないが)、そういう映画が30年くらいたって実は傑作だったとか今観ると笑えるとか言って(今下らないと認定されていても)再評価される可能性はあんまりないのではないか、とも思うのである。