『デビルマン』をついに(今頃?)観た!

ついに花粉襲来です。2月に入ってから症状が・・・。おまけにクシャミの反動が腰にきてしまい、腰痛に悩まされています。『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』『それでもボクはやってない』も観ているし、TV放映分はHDDに貯めこんでいるのですが、とても書き込む気力がない。
なんてこと言いながら、なぜか今頃になって『デビルマン』を借りてきてしまいました。これについてちょっと書きたいと思います。
まず、この映画を映画館でみた人びとは勇者だった、ということである。薄々、または完全に超愚作であることを認識していながら、あえて交通費こみで映画館へ駆け込み、観た上で堂々とウェブサイト上に★1を叩き付けたのである。これを勇者と言わずしてなんであろう。
それに引き換え、私はあまりの評判の悪さにビビり、自宅で布団をかぶってガクガク震えながらビデオリリースされる日を待っていたのである。しかも新作扱いをやり過ごし、1週間レンタルになってから借りたのである(本当は100円サービスデーを待っていたのだが、タイミングが合わなかった)。これを敵前逃亡と言わずしてなんであろう。まったくもって慙愧の念に耐えない。
この映画を観て思ったことは、図らずも、映画人の「マンガ差別」意識が表に出てしまったのではないか、ということである。私を含むマンガやアニメが好きな人は、アニメの輸出総額が鉄鋼を超えたとか、大臣がマンガ愛好家とか、そういう肯定的な情報が多くなってきているので、ひょっとしたらマンガはこの日本社会で市民権を得ているのではないか、と思っているかもしれない。しかしそれはマンガ、アニメファンのゲットーの中でしか通用しない根拠の無い妄想であった。晩年の手塚治虫氏ですら、その業績に見合った待遇を与えられていたとはいいがたい。
文壇、画壇を頂点とするアート界において、階級は確かに存在する。大雑把に言ってこんな感じか。
文壇、画壇、伝統芸能>演劇>写真>映画>TV>マンガ>特撮
確かに映画は20世紀初頭では見世物のレベルであったが、多くの才能によって芸術に押し上げた。レーニンヒトラーも映画を重要視した。さらに科学技術の発展と関係のある機材と多くのスタッフを必要とする映画は、それだけでも最先端の芸術と自負する者がいても頷けることである。紙とペンがあればとりあえずできるマンガとは大違いだ。
デビルマン』の製作過程を見ていると、どうも原作に惚れ込んでどうしても撮りたかった、という動機が見当たらない。当初脚本を公募したにも関わらず、結局監督の奥さんが担当になった、とか監督の大風呂敷な言動とあわせても、、原作をリスペクトしているとは思えない。それでいて、出来上がった作品が傑作だと本気で信じている節もある。
私が思うに、「マンガを映画というより高次な媒体に昇格させてやったのだから、それだけでも有難く思え。」という意識があったのでないか。そうでなければ、あれだけ叩かれて平然としていられるだろうか?
まあこれは推測に過ぎないのであるが、マンガ文化隆盛の折、夢心地だったところで目が覚めたという点では、観ておいて良かったのかもしれない。それでも映画もマンガも好きな私としては複雑な気持ちにさせてくれる映画である。