『生きる』「まちえい」で観る。

この映画を観た翌日の12月3日に小田切みきさんの訃報を聞きました。11月28日には亡くなられていたとか。ご冥福をお祈りします。
中学生の時、保健体育の先生(女性、当時30代)が授業の中で「昔、『生きる』という映画があってね・・・」とこの映画の素晴らしさを熱心に語っていたのを思い出す。ある男が余命幾許もないことを知って、己のやるべきこと(公園建設)に生きがいを見出してひっそりと死ぬ・・・という話を聞いただけで感動し、涙が滲んだものである(今にして思うとネタバレ行為だけど)。
しかし後にTVで見たとき(多分『影武者』公開でTVで黒澤特集があったのだと思う)はなんとなくピンとこなかった。それどころか、この映画ちょっとおかしいのではないか、と思ったほどだ。主人公の渡邊(志村喬)は変な人で、「まあ」「その」「あの」「ひとつ」ぐらいのボキャブラリィしかない。役所に長年いると失語症になってしまうのだろうか。主人公がさあ公園を作るぞと思ったら途端に主人公はいなくなってしまう。その後は葬式で、参列している職員の話になる。家族との絆もバラバラのままだ。近年によくある、泣ける話ではない。
再見すると、ずいぶん皮肉な視点の映画だなあと思った。冒頭にいきなり胃のレントゲン写真が出てくる。ナレーターが「これは主人公の胃である。」と言う。最初から主人公を突き放した演出である。病院で患者が「医者が胃潰瘍ですねー♪と言ったらこれは胃がんだ!」とか聞きたくないことをしつこく話すシーンは笑えるが、前編、微妙なブラックユーモアで満ちている。市役所の描写もすごい。いくら怠慢でもあそこまで積みあがるかというくらい書類が積んである。市民であるおばちゃんたちが公園を作ってほしいと申請すると、「たらいまわし」を文字通り忠実に映像化して見せてくれる。これも爆笑である。次々と回される部署の数秒の映像でも、背景とかキチンと作りこんでいるのはさすがである。
渡邊の内面が唯一描かれるのは彼が息子の小さいころを回想するシーンである。ここも短いながら画面が作り込まれている。しかし考えてみると渡邊の内面と言えるのは彼が呼ぶ息子の名前・・・のみで映像は客観描写といえなくもない。
絶望した渡邊は作家の伊藤雄之助と仲良くなって遊び歩く。「私がメフィスト・フェレスになりましょう。」という伊藤は適役。この辺の風俗描写も今観ると結構貴重な映像なのだが、ダンスホールで膨大な人数の男女がそれこそすし詰め状態になってるシーンは圧巻(どう見ても踊ってない)。歓楽街ではまたく疎外された存在でしかない渡邊はここで「ゴンドラの歌」を歌う。
次に渡邊は小田切とよ(小田切みき)に会う。彼は彼女の明るさに引かれて遊んでしまう。ここで彼は例の少ない語彙で小田切に訊く。「私は・・・君といると・・・生き生きと・・・なぜ・・・知りたい・・・君はなぜ、そんなに・・その・・・」とかなり怖い迫り方をする。向こうのテーブルでは女学生が友人の誕生日を祝おうと準備をしている。得意の画面多重構造。それが何を意味するか、まだ観客は知らない。小田切は工場に作っているおもちゃの兎を見せて、これを造ってると日本中の赤ちゃんと友達になったような気がするの・・・と言う(ちなみにこの工場の窓の揺れ方が尋常ではない)。その言葉に天恵を受けた渡邊は階段を駆け降りる。「そうだ、公園だ!」入れ替わりに女学生が来て、皆が合唱する。「ハッピーバースデー!」このとき、市民課長渡邊は人間として生まれ変わった!
と思ったら渡邊は死ぬ。冷徹なナレーターが入る。この映画がすごいところは主人公の内面を語らないところだ。人生を主題にしているにも関わらず・・・。他人が見た主人公の積み重ねで描かれる。職員たち、家族、ヤクザ、市民たち、・・・。人によって主人公観が異なる。関係が冷えていた息子夫婦とも結局和解せずに亡くなる。死んでからああ、そういう人だったのかと思う他は無い。ある意味無常であり、残酷である。人々は渡邊が「そういう人だった」ということが今になって分かってもその感情の持って行き場が無い。だから死とは本人の問題ではなく、あくまで残された人の問題なのである。
そして葬式の席で残された人々が語る。一人一人が渡邊の思い出を語って泣かせるのではない。それどころか公園を作ったのは我々の力、渡邊なんかの業績じゃないと力説する。ここからの展開は回想ものというより、『12人の怒れる男』風の男性的ディスカッションドラマとなる。この中で一人だけいや、公園を作ったのは渡邊さんの力だ、と言う。皆が否定する。しかし、そういえば・・・と言いつつ、渡邊の行動が思い出される。それらは各人の見た主人公の姿であり、死んでしまった主人公自体は何も語らない。それぞれの客観的な渡邊観が醸成されると、だんだん公園を作ったのは渡邊さん、という意見が優勢になってくる。そこにダメ押しをしたのが、突然焼香を上げに来た警官である。彼は言う、あの雪の降る夜、あの人は気持ち良さそうに「ゴンドラの歌」を歌ってました・・・」観客も役人も感極まる。感動する。そうだ、俺たちも志村さんに続こう!やればやれるんだ!役人皆号泣する。
数日後・・・・やっぱり何も変わらない役所。このあたり、たとえば観た人間が、「僕も渡邊さんみたいにがんばりたいと思いまーす。」みたいな感想を書くことを予め想定しているようで実に底意地が悪い。映画に感動したからって、そんなに人間かわんねーぞ、と後ろから冷水を浴びせられたような気がする。映画は肝心の公園をあまり丹念に撮っていない。ラストにちょっとだけ登場する。出来上がったものにも、黒澤は興味がないのかもしれない。主人公の内面にも、その見える成果にも興味がないとしたら、一体何が残るのか。その人の行動が他人を動かした、ただそれだけに価値があるということではないか。他人を動かすだけでなく、ただの一人でも心まで動かしたのならばなお結構、ということではないか。最後に公園を見つめる職員(最初に渡邊を擁護していた部下)ひとりだけでも心を動かしたらな、それで充分な人生ではないか。実に奥ゆかしい結論だが、人生、映画観たくらいでそんなに変えられるほど甘くないよ、というのが黒澤の本音ではないだろうか。
昨今見かける「泣ける映画」(粉川哲夫氏の造語だと『涙ポルノ』)とは一線を画する、厳しい、辛辣な、意地が悪く、おまけに悪趣味でもある傑作である。