NHK特集『神様がくれた時間 岡本喜八と妻 がん告知からの300日』2

昭和43年、『肉弾』を製作。しかし映画会社は出資しない。
監督「・・・もちこみ企画がまったく通らなくなり、果ては脚本の一稿すら書かせてもらえなくなったのには滅法参った。」
喜八映画は確かに当初から一部熱狂的ファンがいて評論家受けも良かったが、飽くまで一部の話である。興行的にはまったく当たっていなかった。60年代後半、映画界の大規模なリストラが始まっていた。
みね子さん「人様に見せられるようなものが作れるのか・・・非常にプライベートな内容なので・・・だから自分でお金をためて映画館でやってもらえなかったらフスマに映してでもいいから撮りたいと。そこまで言うんだったらやるしかないかなと。」みね子さんは自らプロデューサーとなり、資金集めに奔走する(当時32歳)。
制作費1000万円(当時)、日数80日、プロのスタッフは5,6人であとはアルバイトという商業映画とはいえない布陣。
この映画でデビューした大谷直子(当時18歳)は自宅が遠かったので、岡本家に住み込んで撮影場所に通った(学校は?)。
映画は絶賛され賞ももらったが、多額の借金は残った。
監督「溜まって汚いのはカネとゴミ。」
この頃からみね子さんがプロデューサーとなり、二人三脚での映画製作という形ができるが、常に金策に負われる日々が続く。『近頃なぜかチャールストン』では撮影舞台を自宅で済ませ、夫婦でCMに主演したりする。この二人で踊っているCMは見たことがある。観た当時はCMに出るほど名が売れてきたのか!と思ったが金策の手段であった。かつての大島監督、今の井筒監督にしろ、映画監督のTV露出度が高くなるときは大抵資金集めである。

8月3日
みね子さんは監督に「どちらさまですか・・・?」と言われる。認知症の症状が出てきたのだ。
時間がたつと正常に戻ったが
みね子さん「本で読んだり映画で観たりしてましたけども・・・病気が悪くなったことと痴呆が重なってこれからこういう状態になっていくのかなーて、その時の寂しさはね、戦友が隣で倒れたような感じですよね・・・」看病しているときはつらいとも思わなかったが、これはショックだった。話しながら当時を思い出して涙が止まらなくなる。
認知症ほどむごいものはないんじゃないか?40年連れ添った最愛の人でもわからなくなってしまうんだよなあ。どんな立派な業績を積んでも、素晴らしい知性の持ち主でも記憶がなくなれば全てが終わりなのか?
9月10日
『幻燈辻馬車』の脚本の直しに入るが思うように進まない。もはやミキサーの食事も喉を通らず、スープだけとなる。二階の寝室に上ることもままならなくなり、今のソファで寝ることになる。
12月
「昨日監督の病状をはっきり聞き、二人の心を決めるときを迎えた。」
これから監督を家から出さず(結構映画関係者やスタッフと外で会うこともあったようだ)、出来るだけ二人でいようと決心する。
1月家に来ていた娘を呼んでこういったと言う。
「相談がある。実は・・・好きな人ができた。」「だあれ?名前は?」「それが分からないんだ・・・しかしずっと想っている、その人もパパのことを・・・」「で、その方どこにいるの?」「今散歩に行っている。」「それってママのことじゃない。」「じゃあ結婚してもいいか?」
記憶がなくなっていても愛は不滅なのだ!がしかし奥さんは忘れていても娘の方は覚えているのか。よく分からない。
2月16日
岡本監督の誕生日
2月19日12時30分
朝から雪が降っていた。昼過ぎ、タバコをうまそうに吸うと、監督はみね子さんの腕の中で眠るように息を引取った。二人の結婚記念日だった。
「今にして思えば監督はすべて分かっていたに違いない。もうこの作品(幻燈辻馬車)は日の目を見ない。ただがんばる私への感謝を伝えたくて、何事もないように振舞っていたのでしょう・・・」
「・・・今思うと神様が最後に二人にプレゼントしてくれたんじゃないかと思うくらい貴重な、私にとっては看病というよりも人生の中ですごいいい時間だった思います。だから今思い出すとつらくなるときと良かったなと思うときもあります。」
それにしても、『幻燈辻馬車』の脚本はどうなってしまうのか・・・