『悪い奴ほど良く眠る』「まちえい」で観る

この映画は未見だったのだが、やはり脂が乗っていたころの黒澤は面白い。題材は政界疑獄ものなのに,なぜかSF冒険活劇を見ている気分になる。
最初の結婚披露宴から面白い。あんな披露宴会場なんてないよ。なぜ扉を締めないのか。記者諸君に晒して解説してもらうためか。手前の記者から見ると、会場入り口に立つ役員、西村晃が異様に小さく見える(しかしちゃんとくっきり見える)。異常にセットが広いのだ。そして西村の人間の小ささも表現しているわけだ。披露宴が始まる。各人の権謀作術がはじまる。ドロドロ人間関係、記者の無責任な解説とが会場の流麗な音楽と不協和音をなし、画面は混沌の様相となる。黒澤流アンマッチ音楽が流れるとき、人間のあらゆる欲望が渦巻く混沌が生まれる。観客は驚き呆れつつも身を委ねていると快感になってくる。あの混沌をまた体験したいと思う(そう考えると『影武者』は混沌という感じはなかった、物足りなさはそこか)。そこに本社ビルを模したケーキ(部下が飛び降りた窓に花のワンポイントがある)がやってくる。なんだこりゃと思う。しかも馬鹿でかい!製作は円谷プロか?最盛期の黒澤に手加減という文字は無い。あのケーキをあとで取り分けたのかとかどうでもいいことも考えてしまう。来賓はもちろん知らないから目出度いと拍手する。一方で顔面蒼白の役員たち。目出度い音楽。混沌が頂点に達する。このビルケーキが副総裁の後ろについたところで阿鼻叫喚のプロローグ終わり。
出所した役員がいきなりトラックに投身自殺するところをワンカットでとるところも黒澤らしいダイナミズム。アンドレイ・タルコフスキーはこの辺のところをよく理解しており、『ノスタルジア』でもうまく使っていた。次は火山である。「滅びの山」みたいなところで自殺する男(藤原釜足)と三船が対峙する。経済事件なのに・・・。もう画面に釘付けである。
で三船が彼に頼むのが死んだことにしてくれ、というやつ。某マンガがパクったが、実際マンガみたいな話である。作りこまれたマンガ。一画面で、前と後ろで別の物語が同時進行しているという演出をよくやる。運転席で三船と藤原、外では葬式で志村が家族と話している(ここでもカーラジオの陽気な音楽と葬式の陰気なお経との黒澤流コラボが功を奏している)。ほかにもこのような画面構成は良く出てくる。今の映画ではあんまりしない。大変だから。もう一つは望遠レンズを多用する、これも今の映画はあんまりしない。むしろ広角だろう。広角は画面内に起こっている出来事を一遍に把握できるから便利だが、全体的に小さく写ってしまう。遠くのものは米粒みたいに小さくなって観客の注意を引かなくなる。望遠だと前のものも、遠くのものも同時に均等に見せるので、観客はそのときの状況を一瞬に理解するだろう。先の披露宴会場の記者と西村の距離がその例である。今の映画で望遠を多用しないのは、やはりセットが小さいという経済的理由、役者が演技しにくい(スタッフが遠くにいるから)ということがあるのだろう。言い換えるとだから黒澤作品では度外れた広大なセットが必要だと言うことである。
西村、藤原の幽霊演技で段々憔悴してくる。この憔悴メイクも黒澤の十八番だろう。後の『乱』、『まあダダよ』、以前の『生き物の記録』などの憔悴演技も思い起こされる。この後、ワンシーンワンカットで西村が500万円横領の嫌疑を掛けられるシーンも忘れがたい。ワンシーンワンカットは今でも若い監督はやりたがるらしい。かっこいいから。『踊る第走査線』でもあったような気がする。でもやるんならこれくらいやらないと。ワンシーンで一つの物語が完結するくらいでないと多分意味が無いだろう。最初と最後に価値観がまったく変わってしまうくらいに。タルコフスキーアンゲロプロスもその辺のところは、やっぱり分かっている。そしてここでも手前の西村転落劇と後ろで涼しい顔して事務をしている三船との「二つのドラマ」が同時進行しているのである。
その後いろいろあって、後半の見ものは広大な廃墟である。怪獣映画かタルコフスキーの『ストーカー』みたいな廃墟だ。経済犯罪ものなんだよな?どこまで手を加えられているのかわからないが、これがもう主人公の心情を代弁していて慄然とさせられる。ここでも三船、加藤、森、志村、香川京子の何人もの人間の思惑が渦巻いてもうゾクゾクしてしまう。思うに黒澤は人間の情念とかをそのまま別の映像なりモノに移し変えるのが異常にうまいのだろう。
この映画は黒澤映画の中では並のほうなのだろうがそれでもここまで楽しませてくれるのだから、大したものである。後半は都合が良すぎな気がするが、加藤武の一人熱演で元を取ったとしておこう。三橋が結局傍観者だったのが残念だった。香川京子の足が悪いというのもあんまり生かしきれてなかったような気もする。