ズームレンズの時代

キル・ビルVol.2』を観て、今更ながらズームレンズというものが気になるようになった。
渋谷ツタヤに珍しく『片腕カンフー対空とぶギロチン』があったので借りてきた(ということは現時点で渋谷ではこのビデオは貸し出し中・・・許されよ・・・土曜の午後8時ごろに返しにいきますのでそれ以降に『貸し出し中』ということはすでに借りられているということです。)。
この映画の空前絶後の馬鹿馬鹿しさについては後述するとして、やはりカンフー映画はズームを使いまくる。「俺が相手だ!」と主人公が奥から出てきたら、すかさずズームアップ!これがよく合うんだな。
70年代はズームレンズの時代だったと言って良い。最近ではどんな馬鹿映画でも目だったズームは使われていないようだ。さすがに作り手の思惑があまりにも目に見えて下品、目が疲れる、ということだろうか。ビリー・ワイルダー監督の『悲愁』という映画で確かウィリアム・ホールデンが「最近の若い監督はズーム付きのカメラを振り回せば映画が出来ると思ってやがる。」というセリフ(うろ覚え)があるが、一般にこのセリフはアメリカンニューシネマ組の人たちを揶揄したものと言われている。
しかしながら、よっく考えてみると巨匠も使っていたのだ、ズームを。『片腕・・・』のついでにルキノ・ビスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』のDVDを買ったのだが、いやー、ズーム使う使う。とにかく人物が登場するたびにズーム使ってるよ。ビスコンティは『熊座の淡き星影』から『家族の肖像』あたりまでズームを多用している。
ふと思うんだが、ジミー・ウォン映画のズームとビスコンティ映画のそれとはどう違うのか?観客の目を人物に集中させると言う点では同じじゃん、という考えが頭から離れない。しかし知識人によると、『熊座の・・・』のズームはあらゆるものを飲みこむ《裂け目》を象徴しており、「地面の裂け目から滑り落ちるような感覚が演出され、観客は彼らの魂の《裂け目》へと引きずり込まれてゆく・・・」(押場靖志氏・翻訳家)のだそうだ。そうかな〜。ただ単に特定の俳優を撮りたいだけなんじゃ・・(略)。ビスコンティ監督は20世紀を生きぬいた偉人の一人であることには変わりありません。それは事実。
もう一人70年代にズーム使っていた巨匠はルイス・ブニュエル監督である。フランス時代に入ってから結構使っている。特に印象的なのは『自由の幻想』での「少女誘拐事件」のエピソードだな。

学校で授業をしていると、男が入ってくる。「大変です!ウチの娘を誘拐したという電話が!」「ええ!それは大変だ!」しかし生徒の中から女の子が立ち上がり「せんせ〜ワタシここにいます〜」ここで少女にズームだ(笑)。警官が来て「で、その子の特徴は?」「あ、ここに本人がいますので。」「それはちょうどいい。」(手元にビデオがないので正確ではない)

ここでのズームは完全に確信犯的な馬鹿ばかしさを狙っている。最近ではこういう使い方の方が主流かもしれない。
やはりズームという技法は70年代のアダ花だったのだろうか。